結局、正論とはなんだ

昨日の続きです。

原発に関連して、もう一つ書いておきたい事があります。
以前、衆議院総選挙直前だったと思いますが、ニコ生で橋下大阪市長のぶら下がり取材を見る事がありました。
橋下氏のぶら下がり取材というのは、氏が質問してきた記者を論破する事で有名で、そんな場面も見られるかも知れぬという期待もあって見ていたわけです。

総選挙前という事もあり、ある記者が「維新として、原発に関してはどうお考えか」というような事を質問しました。
それに対する橋下氏の返答を聞いて僕は、あぁこの人は危険な人かも知れないと感じたのです。あの気持ちは伊坂幸太郎の小説「魔王」の主人公が感じたものに似ていました。

氏はこんな事を言ったと記憶しています。

「僕は知事として府の行政を任されてきたし、今は市の行政を任されている。原発再稼働や推進といった判断は、その時にならなければ分からない。今はデータが無いので判断出来ないし、脱原発や推進という事も言えない。これは行政を任された者にしか分からない判断だ」

これも、もう本当に何も言えないほどの正論です。反論の余地はありません。
だって、行政を任された事ありませんから。世の中の大体の人はそんな立場に置かれた事ありませんから。


このように正論とは、問題解決にはあまり役に立たない事が多いのです。

ギャンブルの例で言うと、その問題の解決にはギャンブルとは違う、他にやりたい事や趣味を見つける事が必要です。ギャンブルをしている時間が無くなるくらい何かに没頭出来れば、問題は自然と解決出来ます。

ただ、結局はこの趣味なども自分で見つけなければいけないので、そのハードルはとても高いです。ギャンブルは違法すれすれだから今すぐやめろ!と言うよりは、余程建設的だとは思いますが。


原発に関しては、もっと大きな視点で見る事も、あるいは大事なのかも知れません。
原発に依存して経済を成り立たせてきた地域を、如何に依存から脱却させるか。また、原発を推進する事でお金が動く経済の構造を、どうやって変えていくか。

こういった事に少し目を向けるだけでも、随分と見方が変わってくるのかなと。
しかしながら、これも単なる正論と言えなくもありません。


と、ここまで色々と書いてきました。
僕が思うに正論とは、ただ単に他を排除する手段でしかありません。自分の近くから他者を排除して、より自分に都合の良い社会を作る。この実現の為に正論が使われているのではないでしょうか。

正論を武器に、何人も寄せ付けず、縦横無尽に敵を倒す。

しかし、自分が利する為に他者を排除してばかりいては、世の中は上手くゆきません。やがては破綻するでしょう。
そうならない為にも、正論ばかりを声高に叫ぶのでなく、具体的な解決策を探すべきです。


という考えに至ったのには、先日の帰省が非常に大きく影響しています。
久しぶりに帰省してライブをして打ち上げをして、気分良く終わろうとしたところ、最後の最後に正論を振りかざし、演者を批判したハコのスタッフ。
僕はその場に居合わせませんでしたが、この長い記事はそんな彼を鎮める為のレクイエムです。

中学校の先輩であり、兄の友人である彼ですが、遠慮せずに言わせてもらいます。

正論ばかりが正義とちゃうぞ。