フェイスブックの終焉

昨日は小学校の同級生との飲み会に参加してきました。僕の小学校は地元である弘前市にありましたが、今は廃校になり市役所か何かの出張所になっていると聞きます。
駅前の街中にあった小学校ですので、世帯数自体それほど多くはなくて、僕が卒業する時の全校生徒は200人に満たなかったと思います。150人くらいでしょうか。僕の学年は20人の2クラスから始まり、と言ってもそれは一年の時で終わり、二年生からは1クラス、卒業の時は30人くらいでした。

そんな30人のうちの10人以上は東京にいます。クラスの三分の一以上。

そして今年の夏から、東京にいるメンバーで飲み会をする事が多くなりました。
これまで殆ど連絡を取っていなかったのに、卒業から15年を経った今、何故急速にその輪が広がっているのか。その大きな理由の一つがフェイスブックです。

皆さんもこんな話はよく聞くし、実際に集まっている方も多いとは思います。
フェイスブックは実名登録をほぼ義務化する事で、人探しのツール、インフラとしてその存在感をどんどん増しています。

ただ、思い返すと僕が登録をした2010年の時点では、知り合いの登録者は全然いませんでした。バンド関係、ライブハウス関係、その他の音楽の関係の方で何人かいる程度で、始めた当初は全く楽しくなかったのを覚えています。
実際にウォールへの投稿の履歴を見ても、その頃は何も投稿していません。

いつからフェイスブックが楽しくなってきたかと言うと、それはやはり、周りにいる実際の友達が参加し始めてからだと思います。
昔から知っている友達に「今の自分はこんな事に興味がある」とか「こんな買い物をした」と写真を見せて、「いいね」を押してもらう。なんだか気持ちが良い。それこそが、ザッカーバーグが皆にやって欲しかった事でしょう。


ただこれは結局、そこにフェイスブックの終焉があるという事です。

つまり、フェイスブックが終わるとき、過疎るときというのは、実際の多くの友達がフェイスブックを開かなくなったときなのです。

今、僕はこの記事を書きながらツイッターのアプリを立ち上げ、別のタブでフェイスブックを開いています。
しかし、こんなに熱心にSNSをやっている人はどれほどいるのでしょうか。普通に生活をしていて、色々な事を友達とシェアしたいと思う人が、一体どれだけいるかという事です。

やり過ぎるとウザいと思われるし、何もしないとROM専と言われる。これはなかなか厳しい世の中ですが、ROM専だけではそもそもフェイスブックは成り立ちません。そのバランス感覚は、実際にやってみて掴むしかないと思いますが、もしかしたら僕はすでにウザいと思われているかも知れません。

それくらい投稿してしまう楽しさがフェイスブックにはありますし、インフラとしての利便性を考えると、この先も長続きして欲しいサイトではあります。しかし、5年前に隆盛を極めたMySpacemixiは、今や跡形もありません。MySpaceはリニューアルするようですが。
その流れの速さがインターネットの世界だし、より便利なものが現われればそちらに流れます。

要は、これからもフェイスブックがどれだけ楽しさを提供できるかに懸かっているのです。

どうなると終わるのかは分かりきっています。
ニュースフィードが自分の投稿で埋まり、誰も「いいね」をくれなくなったとき、それがフェイスブックの終焉なのです。