真面目な酒屋についての話

以前にも少し書いた事があるけれど、僕の実家は酒屋を営んでいた。
そう、過去形だ。今、その店は他に売られてしまい、まだ何になったのかをはっきりとは知らない。
一目でそれと分かるピンク色だったうちの店は何色に変わったのか。売られてからは帰省していないので詳しくは知らない。

「松野酒店」という名のその酒屋は、僕の祖父の祖父の代くらいから続いていると思う。昔はよく「おじいちゃんの父親は、地元の長者番付に載った事がある」と、嘘か本当か分からない事を聞かされたものだ。
一時はそんな栄華を誇った酒屋も今では見る影も無い。

酒屋は弘前駅のすぐ近くにあった。町名もずばり、駅前町である。
物心ついた頃、僕は常に酒屋にいた。自宅は他にあったが、役所への届けなどは全て酒屋の住所にしていた為、小・中学校は酒屋がある学区の学校となった。自然、学校が終われば酒屋に帰り、友達と遊び、晩ごはんを食べて自宅に帰るという生活がずっと続いた。

僕が小学校高学年か中学校に入学する頃、駅前の再開発の関係で、酒屋はその向かいにプレハブ店舗として移転した。ピンク色の新しい酒屋が出来たのはいつくらいだろうか。高校に入学したくらいか。

その駅前の再開発により、弘前の駅前というのは大きく様子が変わった。
まず、毎週ジャンプを買いに行っていたパン屋さんが無くなった。無くなったとは言い過ぎだが、少し遠くに移転してしまい、しばらく後に閉店となる。何故、パン屋でジャンプが売っていたのか。まあ、田舎のジャンプなんて、需要があればどこにでも置くのだろう。ジャムやバターのサンドウィッチが美味しかった。

パン屋だけではない。馴染みの色んなお店が無くなった。隣にあったこがねちゃん弁当も無くなった。近くにりんごを売っていたお店もあったように思うけど、今や見る影も無い。さらに、お酒を配達していた居酒屋なども無くなった。酒屋の収入はその頃からどんどん減っていたのだろう。もちろん、当時の幼い僕にはそんな事は全く知る由もないのだけれど。

そんな学区なので、他にも商売を営む同級生の家などもあったが、今でも続いているのは幾つあるだろうか。もしかしたら、うちの酒屋はよくもった方かも知れない。

酒屋を営んでいたのは祖父である。御歳90歳近い祖父が全てを切り盛りしていた。祖母と二人でやっていたが、その祖母が他界してからは一人でずっと酒屋にいた。
祖父はもしかしたら、自分の代で酒屋を閉める事を心に決めていたのかも知れない。
店の建て替えによる借金もかなり残っていたらしい。詳しくは知らないが、その借金を残し自分がこの世を去る事を、あの祖父が許すとは思えない。

晩年は祖父と祖母の年金と、僅かな売上でなんとか維持していたのだと思う。売上だけでは決して続けられなかっただろう。それくらいに、駅前と言えど人通りがまばらなのが弘前である。

僕には、小学校にいた時から始まったこの再開発が、とても成功したとは思えない。
道路は綺麗になり、新しい公園も出来た。歩道も歩き易く、さらに明るくはなったかも知れないが、それ以上に失ったものも多いのではないだろうか。
この再開発の時期というのは、所謂「失われた20年」と合致する。
経済の低迷を打破する為に行われたであろう駅前の再開発が、結局はその低迷の象徴になっている気がしてしまう。

また、近年の弘前市の政策・街作りに関しても、納得出来ない箇所がある。

こういった地方の行政にも、僕のような一般人がコミットしていく事で何か変わるのかも。FBやTwで積極的に弘前市関係はフォローしているし、青森県ソーシャルメディアの行政への利用も積極的と聞く。
何か出来るならしたいなー思いますよ。

酒屋が売られてから、まだ祖父には会っていない。話を聞く限りでは元気にやっているようだ。この正月に帰省するので、そこで会える事と思う。気持ちの良い笑顔が見たい。
そんな祖父が12月1日に誕生日を迎える。何歳になるかは定かではないけれど、めでたいねぇ。
自身初になるであろう、仕事をしていない誕生日。楽しんで欲しいものである。

おめでとうございます。